司法制度改革と成仏理論
「成仏」と題した高橋の論考が2006年4月號『法學教室』(有斐閣から出版されている法律専門誌) の巻頭言を飾ると[6]、その內容は「成仏理論」と後に通稱され、司法関係者や広く士業・専門職の間で知られるようになった[7][8][9]。
「法律家が増え続けることになっているが、新人法律家の未來はどうなるであろうか」
「人々の役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう」— 高橋 (著)「成仏」(有斐閣『法學教室』2006年4月號 巻頭言) より抜粋[7]
この発言の背景には、遡ること7年前の1999年より検討開始となった司法制度改革がある[7][8]。當改革の一環で、日本にも法科大學院 (ロースクール) が2004年より制度運用開始され[15]、法曹人口 (特に弁護士人口) の増加が見込まれたことから、新人法律家の一定數は食うに困る者も出るであろうとの悲観的な見通しがあった[7][8]。このような情勢を踏まえて高橋は、金銭面を超えて法律家を目指す大義を問う論考を投じたのであった[7][8]。
しかし、成仏理論は主に2つの観點から批判を受けた[7]。第一に、司法制度改革によって弁護士有資格者は増加したものの、弁護士業の市場のパイがそれに比例して拡大しなかったことから、上述の悲観論が現実となった[7][9]。また第二に、高橋本人は論考を発表した2006年當時、東京大學の教授職という安定した地位にあったことから、食うに困る當事者の心情への配慮に欠くとの意見である[7][8]。なお、成仏理論発表の5年前には、同じく『法學教室』誌面上で「私はお金が大好きである」との高橋の発言も見られる[16]。
「最初は裁判官か検察官になりたかったんです。中學生・高校生のころにリクルート事件など汚職事件のニュースを見て、まあ素樸な正義感ですね。だから民事というのは、あまり考えてなくて、しかも、法學部に入った最初の頃は、初心を忘れて勉強を怠っていたため、法律の世界にもあまり馴染めませんでした」
そう笑う酒井先生の〝転機〟は、2年生の後期で受講した専門の基礎ゼミでした。
「法律そのものや法律に関する様々なことを統計や実態調査といった社會科學の手法で研究する『法社會學』を専門とする助手の先生のゼミだったんですが、とりわけ印象に殘ったのは、法律學の世界では有名な『隣人訴訟』についての議論でした」
「隣人訴訟」(1983年)の原因となる事件が起きたのは1977年。A家とB家は隣人関係でしたが、あるときA家の親が子ども(Aちゃん)をB家に預けて買い物に出かけたところ、両家の子どもが外に遊びにいき、Aちゃんが溜池に入って、おぼれて亡くなってしまいます。その後、A家はB家を相手取って、損害賠償請求を求める民事訴訟を起こし、一審で勝訴したのですがーー。
「その結果がメディアで〝隣人の親切心に冷や水〟といったように報じられると、A家に抗議の電話や手紙が殺到し、結局、A家は訴訟を取り下げざるを得ませんでした。裁判を受ける権利は憲法で定められているのに、社會がそれを許さなかったわけです。このゼミが、法律と社會の関わりに興味をもったきっかけだったかもしれません」
民事訴訟と社會との関係性に惹かれて
「數ある法律學の中でも民事訴訟を法社會學的に學びたい」という意欲が高まり始めた頃、ゼミの先生に民事訴訟の基礎として勧められた民事訴訟法を學んでいくにつれ、次第にその奧深さに目覚めていったといいます。
「民事訴訟法という法律の成り立ちや、具體的な民事訴訟を民事訴訟で解決しようとする際に生じてくる問題が、そのときどきのリアルな社會の動きを反映していることがよくわかって、そこが面白かったんですね」
その酒井先生が近年、研究テーマとしているのが「當事者主導の民事訴訟審理を実現するための基盤となる、証拠・情報の収集手続」です。その中でもここでは民事訴訟法163條に定められた「當事者照會」という制度に着目します。
當事者照會とは、「民事裁判の當事者が、相手方當事者に対し、裁判における自らの主張・立証のために必要な情報を、裁判所を介さずに書面で照會できる」とする制度です。この制度は以下のような場面で利用されます。
〈病院での手術中にある患者が亡くなったことを受けて、患者の遺族が病院を相手どって「醫療過誤」による損害賠償を求める訴訟を起こした。遺族側は証人尋問の申請の準備のため、當事者照會により、病院側に対して當日手術に立ち會った看護師の氏名などの情報を求めた〉
なぜこのような制度があるのでしょうか。
當事者照會は、1926年に制定された舊民事訴訟法を全面改正した新法として1996年に現行の民事訴訟法が成立した際にできた制度です。その成立には、舊民事訴訟法成立時から大きく変化した社會の時代背景が影響しています。
「舊法における民事訴訟においては、當事者同士の力関係が対等ということが念頭に置かれていました。しかし時代が進んで、社會が複雑化していくと、當事者同士の力関係が対等でなく、事件に関する情報や証拠が當事者の一方に偏って存在するようなケースが増えてきました。例えば、公害は『一般人VS國や地方公共団體や企業』ですし、醫療過誤なら『一般人VS病院の設置者(醫療法人など)や醫師』という構図になります。そうした中で、力関係の弱い當事者が裁判のために必要な情報を相手方から入手できるようこの制度が作られたのです」
當事者照會のメリットとして、訴訟の早い段階でお互いが事件に関する情報を多く得ることで、裁判における主張や証拠が充実し、結果的に裁判の進行が迅速に進む點もあげられます。一方で、この制度には大きな課題も殘されています。
「相手方の當事者が照會を拒絶した場合の制裁規定がないのです。そのため情報提供を拒絶される可能性が高いと考えてそもそもこの制度を利用しなかったりすることもあり、現実の訴訟の場面ではなかなか利用が進んでいません」
こういった民事訴訟の審理を充実化・迅速化させる制度がもっと活用されるためには、どうすればいいのかーーそこを掘り下げていくのが酒井先生の研究です。
法律もまた社會とともに生きている
「実は當事者照會は、アメリカの民事訴訟法における『ディスカバリ(証拠・情報の開示手続)』の制度のひとつである質問書を參考にして作られたものですが、ディスカバリの場合は、質問書による情報開示を拒絶した場合には、強力な制裁があります」
日本でも當事者照會を新設する際に制裁規定が検討されました。しかし、導入には至りませんでした。なぜ制裁規定は導入されなかったのでしょうか。
「當事者照會には除外事項があって、例えば〝相手方を侮辱する〟ような照會には応じなくていいとされています。そのため、照會が拒絶された場合には、除外事項に該當する妥當な理由があるかを裁判所が審査する必要が生じます。権利義務が認められるか否かを判斷する前の手続に関する問題の段階で紛爭が増えることになるし、そもそも手続で制裁というのも日本にはそぐわないという消極的な意見が多く、制裁規定は導入されませんでした」
酒井先生は、アメリカのディスカバリとの比較などを通じて、當事者照會の現狀を検討し、制裁規定などの導入で制度の実効性を高め、民事訴訟を充実化・迅速化をはかることを提言しています。
「民事訴訟が國民に使われないと社會正義は実現しづらい。紛爭に巻き込まれても、立場の弱い人は泣き寢入りするしかなくなるからです。その意味で、裁判所を介さずとも、必要な情報を収集できる當事者照會のような制度は大事だと考えています」
法律もまた、社會とともに〝生きて〟いることがよくわかります。
受験生へメッセージ
學問に対しては、最近では色々なことが言われています。しかし、社會・文化・自然・技術などについて様々な方法を用いて多角的に深く検討し、かつ、世の中にたくさんある、自分が今まで知っていた考え方とは異なる考え方を理解することを學べるという點に、學問の世界に觸れることの重要な意義があるのではないかと思います。特に受験生の皆さんは、學問の世界に身近に觸れ、自分の視野や考え方を広げるための場に入るということも念頭に置いて、大學進學の目的や意義を考えてもらえるとありがたいです。